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調査研究報告書

IT化の推進と大都市印刷業中小企業の多様な戦略展開
(1)研究の趣旨
 国内製造業中小企業は、海外生産化とデジタル技術の急速な発展という2つの大きな要因によって急激な構造変化を迫られている。典型的な都市型産業であり、その圧倒的部分が中小企業から成る印刷業も例外ではない。
 印刷業の最も注目すべき構造変化要因は、デジタル化の進展である。デジタル化による印刷技術の革新と、顧客側でのデジタル化の進展の両面からの影響を受けて、既存の印刷業の存立基盤は大きくゆらいでいる。しかし、その中で、印刷関連需要が集中する東京の立地優位性を活かし、独自の戦略的展開を行って成果を上げている印刷業中小企業もある。
 本調査研究では、巨大都市東京の印刷業中小企業の現状を調査し、その存立展望について検討考察した。最近の印刷業の急激な構造変化にもかかわらず、大都市印刷業の研究は近年あまり活発でないことも本調査研究の意義を高めるものと考えた。
 事例企業として特徴ある経営をしている18社を取り上げた。これらは従業者数が数十名から百数十名で、従業者29名以下が95.4%を占める東京の印刷業者の平均的事業所規模対比、比較的規模が大きい層に属している。
(2)研究の概要
◎印刷業の概要・変遷とデジタル技術の発展
 「製版業」、「印刷業(プレス)」、「製本業、印刷加工業」、「印刷関連サービス業」の4業種からなる広義の印刷業は、東京の最重要産業の1つで、全国の印刷業事業所の1/4(10,673社―2000年)が集中し、東京の総製造業事業所の17.2%、従業者数の16.8%、製造品出荷額等の11.9%を占めている。また「受注産業」、「情報産業」としての側面を持つのも印刷業の特徴である。
 印刷(プレス)技術の最大の変化は70~80年代の活版印刷からオフセット印刷への移行である。これにより(1)印刷機の高速化、(2)印刷機の自動化、(3)多色刷りへの対応――が進むとともに、編集や組版・刷版等の前工程(プリプレス)分野も影響を受けた。さらに90年代に入るとプリプレスの分野で、文字だけでなく、写真等の画像も一括処理できるマック・コンピュータの利用が広がった。その後デジタル技術の進展は印刷業の全工程に及ぶが、その影響は次の4つに要約される。(1)印刷工程の変容――文字や画像の一括処理が、製版工程でそれらの版を張り合わせる必要をなくし、1枚のフィルムとしての出力を可能にした。さらに今日では、フィルム出力せず、パソコン・データから直接、刷版を製作するCTP(Computer to Plate)方式が普及しつつあり納期短縮や製造原価低減につながっている。また版を作らず、小部数、短納期に対応した「オンデマンド印刷」や「ダイレクト印刷」等の方式も現れている。(2)印刷業の垂直的統合の進捗――印刷業(プレス)がプリプレス分野やデザイン等の分野を統合する動きが90年代末から起きており、従来の工程を基礎とした分業関係が変容している。(3)情報サービス分野への展開――「紙」以外の様々な媒体に印刷物の内容を加工し、活用する試みが一部で見られる。(4)印刷工程全体のデジタルデータによる数値管理、標準化の進捗――特にカラー印刷での熟練工の技能の必要性を減少させている。
――他方で、デジタル技術の発展は、パソコンやプリンタ・複写機の普及を通じて、簡単な資料や名刺等の顧客側での内製化を可能にした。これは、印刷業者に求められるのは「素人」では対応不可能な高度な技術を要する印刷物に限定されつつあるという意味で印刷業に大きな影響を与えている。

◎東京の印刷業中小企業の戦略的展開
 印刷業中小企業の戦略構築に当ってポイントとなるキーワードは次の3つである。(1)提案型志向―「待ち」の姿勢を転換し、積極的に顧客に提案することで受注を開拓・確保するもの。受注産業としての制約を免れ、止めどなき価格競争からの脱却を狙うもので、従来からある戦略だが、デジタル技術の活用による展開が最近の特徴。具体例としては、a.サンプル製作等により、印刷物作成の際に不足している顧客の企画・デザイン力を補うことで受注を狙う、b.印刷物の提供を通じ、顧客にプラスアルファの価値をもたらすことで、顧客の経営や事業内容にまでかかわる(データベースの管理やそのデータを活用した印刷物の製作や郵送等)、c.顧客の事務所内に自社の窓口を設けて、顧客の印刷業務を全て受注する「インプラント」方式、d.印刷物の内容のCD-ROMやHPへの加工、HPの支援ソフト、教育や出版関連分野を中心とするソフト開発、等があった。これらは受注産業としての印刷業の問題克服に示唆を与えるものである。デジタル化の流れのさらに発展した形として、印刷業から情報サービス分野への挑戦も起っている。(2)迅速化対応――大都市に立地する印刷業中小企業群は、質的多様性と量的変動性に富む顧客の印刷需要に迅速対応するため、工程別の専門化、需要内容別(ロットサイズ、製品内容等)専門化による高度な社会的分業構造を構築し、同時に、量的変動への対処として同業の企業への発注(仲間取引)も必要に応じて行ってきた。デジタル化の迅速対応への影響は、この工程別社会的分業のあり方を変化させるとともに、印刷業企業間競争のあり方にも大きな影響を与えている。即ち、社会的分業の下で独自の存在基盤を擁していた製版工程が、CTP導入の過程で、印刷企業に取り込まれ、あるいは製版企業が印刷工程へ進出することで、印刷業間の垂直的統合が起きており、工程間社会的分業が崩れつつある事が確認された。また、デジタル化により、迅速化に極めて有効な企画段階から最終的な印刷段階までの生産の一貫化が進行している。その一方、部分的にデジタル機器を導入しつつ、幅広く外注企業を活用することで、多様な需要に柔軟かつ迅速に対応する従来型の社会的分業活用印刷企業も存在し、それなりの存立展望を持ちえていることも確認された。デジタル化の進展の下でも、顧客との繋がりの維持を通じて、今後それなりの活路を見出せる印刷業企業が存在しうる可能性が残っていると同時に、種々の制約から積極的にデジタル化生産体制を社内に構築しえず、社内生産体制だけでは一層の迅速対応の必要性についていけない企業も多く出る可能性があることが窺われた。なお、大都市に集積する繰り返し性の少ない顧客層からの需要への対応には、校正等で顧客との頻繁な打合せを要し、顧客への隣接立地が不可欠なことが大都市内での印刷業中小企業の集積立地を成立させてきた。今後もこの条件が変わらない限り、印刷需要の窓口としての多数の印刷関連企業の集積は維持されていくと考えられる。(3)高品質化志向――高品質の印刷物とは、高精度で、色の再現が確かな印刷物がロット数に関わらず安定的に作られることであり、この戦略はモノづくりへのこだわりにより営業強化を図るもの。職人の技能や、経験・勘に頼る部分が大きく、標準化が困難とされてきた印刷業も、デジタル技術の進展により様相を大きく変えている。しかし、デジタル機器導入で即、高質な印刷物ができるわけではなく、職人の技能に頼らずとも「そこそこのもの」ができる程度にすぎない。そこでさらなる展開として、データ管理を推進、徹底した数値化・標準化に裏打ちされた一貫管理による高品質化が図られている。こうした試みの中でも、個々の企業毎に、独自な考え方・方法による対応が見られた。印刷業(プレス)では、a.印刷に関わる変動要因(例:温度、湿度)を除去して、印刷機の性能を使い切る。b.デジタル化で高められた色の加工技術を、感性をはっきりさせることで更に高めようとする例などである。デジタル技術の影響を最も受けている製版業では、デジタル化で標準化されたものに、さらに加工を加えて(ある事例企業はこれを「極み」の技術と表現していた)より質の高い製版を目指す例が見られた。
 こうした3つのキーワードを踏まえ、東京の印刷業中小企業の戦略的展開の方向を纏めれば、(1)受身の受注ではなく、印刷内容の企画提案により、高水準のプロの技を示して受注を開拓し、更に印刷絡みのビジネス提案にまで提案内容を高める。(2)フルデジタル化を核に、社内完結型の一貫生産を追及し、徹底した高品質化を目指す。(3)上記(2)同様、一貫生産を追及しつつ、多様な需要への迅速対応を目指して装備を充実し、その装備を生かし操業度を上げるため、同業他社からも受託する方向での展開。④最新鋭の印刷設備を装備し、各種制約からそうした導入が困難な業者の印刷業務の受け皿となる方向での展開。――の4つになる。このうち①は、第一義的にはデジタル化の下での印刷のプロとして、顧客の内製化に対する差別化戦略として位置付けられ、その上で、より高度な企画提案を巡って、印刷業者間での競争が行われるという戦略展開である。(2)~(4)はこれと異なり、高度な印刷技術により、印刷業中小企業間の競争で差別化を図る戦略展開を目指すものである。これらに出遅れた印刷業企業は(3)、(4)の企業を委託先として活用することで、自ら企画提案化の戦略展開を意味あるものにせざるをえない。なお、紙媒体から他媒体の情報加工業への転化は、まだ十分な利益を生んでおらず、現在のところ、主要な戦略展開方向ではなく、副次的な位置付けに止まっていた。

◎原価計算と「水なし印刷」
 今回の調査で印象深かった取組みとして以下の2点があった。(1)原価計算―― 印刷業は、受注産業で、業務内容の定型化が困難なため、意味のある原価計算が難しく、受注毎の原価や利益を把握するというより、業界で一般的な原価表等を参考に見積りし、最終的に、年間を通じどのような利益が出たかを確認するといった経営姿勢が現在でも一般的である。その中でキチンとした原価計算を行い、それを経営戦略の中に位置付けて、一定の成果を挙げている企業もあった。これらは長年の努力の積み重ねとコンピュータの導入で可能になったもので、これら企業はシステム構築を独自で行ったり、納得いく原価計算ソフトをカスタマイズして使用したりしている。対顧客のみならず、社内の生産体制等の不断の改善・高度化のための基本的な部分の1つが、原価計算をキチンと行い、原価を把握する事にあるというのも、事例が示唆する重要な点であった。(2)環境対策と「水なし印刷」――印刷業界も環境問題への取組みを迫られる中、一部で「水なし印刷」への関心が高まっている。これは印刷(プレス)工程で、「湿し水」と呼ばれる水の代わりに、分解処理後、再利用可能なシリコンを使用するもので、有機溶剤等の有害物質を含む廃液が出ない。しかし、印刷業の環境対策としては、プレス時だけでなく、全工程で使用する水の管理の方がより重要であるとして、「水なし印刷」は行わず、工場全体のトータルな排水や廃棄物の管理を行っている企業もあった。また、印刷技術面では、「水なし印刷」は、印刷物がクリアに仕上がるメリットがある一方、水の量によるインキ量の調整ができなかったり、現時点では版の値段が高かったりなど、従来方式対比一長一短があるといわれている。いずれにせよ環境問題は今後避けて通れない課題であり、「水なし印刷」の今後の動向が注目される。

(3)結 び
 印刷業にとってデジタル化の意味するところは、(1)一般的印刷物について顧客層での内製化が可能となり、印刷物を作るだけの印刷業者の存立展望余地が極めて狭まった。(2)デジタル情報について組版から印刷まで一貫した展開が可能になり、管理水準を高度化するほど、印刷物の標準化が可能になって、安定した印刷物の生産ができるようになった。こうした印刷のフルデジタル化は、カラー印刷を初め、各工程で職人的習熟に依存する余地を顕著に減少させている。――の2点である。特徴ある経営をしている印刷業中小企業は、こうしたデジタル化による技術革新を取り込んだ上、自社の独自性も打ち出して、上記のような戦略的展開を試みている。
 次に明らかになった重要な点は、工程間社会的分業が大きく崩壊し、東京の印刷業中小企業の社会的分業構造が再編成の方向にあることである。前者は製版業の自立的存在基盤が消滅しつつあることを意味し、他方で、高品質化を追求する企業は、完結型の一貫生産体制を構築して、社会的分業の下に印刷物を作り上げる構造から離脱しつつある。更に、重要な点として、デジタル化を担う従業員教育があげられる。これは、機器を直接操作する従業員だけでなく全社的な教育であり、独自な戦略展開をしている先進的企業ほど教育に熱心である。
 デジタル化の波に全く対応できていない印刷業中小企業については、多様で大量な需要が存在する東京という市場に近接立地しているため、一気に全ての旧来型需要がなくなることはないが、市場の急速な縮小は免れず、今後、地域的、社会政策的な大きな問題となろう。最後に残された問題は、製本業を典型とする印刷関連企業の存立展望である。多くの印刷業者が外注先として利用しているこれらの業者は、経営者・労働者の高齢化の進展で廃業が増えており、将来的にはこれらの外注利用が困難になるのではないかとの危惧の声もあった。製本業については、製版業のようなデジタル化の進展による工程間社会的分業から一貫生産への変化といった技術的可能性・有効性の変化は生じておらず、東京の印刷業を展望する時、その意味を改めて問う必要があるが、今回調査ではそこまで対象を広げられなかった。
 なお、「海外生産化」の影響は他の産業分野ほど大きくなかった。これは
取引先の生産拠点の海外化は、印刷業企業にとって需要の多様な変化の1つに過ぎず、全体としての需要構造を大きく変えるものではないためである。

(本報告書は、『巨大都市印刷業の新展開―デジタル化の衝撃―』の書名で(株)同友館から一般書籍として発行された。)

以上
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