昭和52年金属部品加工業として創業。当初はガス器具やOA機器の量産品加工を手掛けていたが、昭和60年以降の急激な円高進行の中、高付加価値化を目指し多品種変量生産に転換した。平成元年にFA装置向け部品を扱う商社からの受託加工開始。各種工作機械やIT化への積極的投資、約400名の技能スペシャリストなど人材育成により他社との差別化を図り、最短で受注当日の出荷に対応する高い納期遵守率が評価され、各地の衰退する町工場で担ってきた小ロットの部品加工を吸収し発展してきた。 主要ユーザーはFA装置メーカー。生産ライン、検査ライン等に必要な部品を提供。1個からの受注に対応できる変種変量生産の1日の受注件数は約6,000件、平均的な受注ロットは4個、製品型式は標準品だけで1万種類以上、受注バリュエーションは320万点に及ぶ。365日、24時間稼働および見積りから加工(旋盤、フライス、研削、放電、歯切り)・処理(表面、熱)・検査・出荷のITを活用した社内一貫生産体制を構築。 現在本社隣接地に新たなマザー工場となる新本社建設中。新興国との競争力・差別化強化、県内生産拠点集約化を図り製造の高効率化を目指す。年度初め社長及び経営幹部が当期末目標B/S、P/L、各部門予算等経営計画開示。更に日々部門毎の成果を数値化して還元。社員の高い経営参画意識の下今後の成長が期待できる。
明治42年創立の木村鋼化工場が前身。日本の金属熱処理業として草分け的存在であり、生活用機械工具の熱処理加工を手掛けた。昭和14年鞄圏m金属熱処理研究所として設立。戦後自動車関係部品の熱処理受注拡大。39年寝屋川工場竣工、以降新規大口取引先生産地に隣接する関西、中部に工場展開、現在国内9工場体制となっている。平成7年にタイ現法設立。熱処理専業者として初の海外進出を果たし、以降マレーシア、中国、メキシコと積極的にグローバル化を展開。 当社の熱処理は自動車を中心に、建設機械、農業機械、工作機械、弱電、半導体の部品等幅広い金属部品等に用いられ、多種多様な熱処理技術と業界屈指の設備・加工能力を有し、総合的熱処理業者では国内トップの取扱量である。 また薄膜形成処理事業は63年から10年間に亘りPVDコーティング技術開発を継続。その後DLC加工に着目し、現在では自動車向け需要が拡大、国内トップのシェアを誇っている。 正社員の8割が金属熱処理技能士資格を保有、各ユーザーから技術力が高く評価され、また海外においても専門業者としての強みを発揮、着実に受注増を果たしている。 継続的な投資と技術者の育成により事業の安定性は際立っており、設備の自社開発製造も含め技術開発への積極的な取組により今後の成長が期待できる。
昭和40年に発泡スチロール材の製造加工を創業。43年に法人設立。大手電機メーカーの下請けとして冷暖房機断熱部材や梱包材の製造で事業基盤を確立。バブル崩壊後は開発提案型企業への転換を図り、ユーザーニーズの追求と独自技術の探求で新規顧客を開拓し大手電機メーカーの製造拠点海外移転後も高い業績を堅持した。 平成20年には成形時に表面を溶融させ硬化膜を作り、滑らかで綺麗な塗装・印刷を可能とした表面皮膜成形品を開発。23年に屈曲可能なヒンジ成形品、24年に金属部材と発泡樹脂を同時成形するリサイクルし易いインサート板金など高機能化を推進し、空調設備・給湯器等へ用途を広げ、ハウジング分野等へ顧客層を拡大した。搬送軽量化、断熱性、短納期、コスト削減等の顧客要請に応え、現在では発泡スチロールの機能部材で東日本No.1の地位を確立した。 多用途に活用が期待できる機能性発泡樹脂成形の可能性を追求し、病院・介護現場、植物工場、航空・輸送等の新分野開拓に挑戦している。 製造設備の充実を着実に進め、提案設計から試作・成形・組立までの一貫体制を築くと共に定期的新規雇用、65歳継続雇用の推進や従業員の資格取得を積極的に支援しており、今後の成長が期待できる。
昭和41年機械加工部品、治工具製造として設立。その後電磁マイクロクラッチや負作動ブレーキ製造および半導体製造装置部品加工を受託。平成13年創業者一族の社長が急逝し、現社長が就任。大手下請主体の厳しい経営環境の中、信頼されるものづくりを通し、人づくり、人を生かす経営を実践し、利益体質強化を図ってきた。 17年主な販売先のブレーキ事業撤退を機に安全装置用ブレーキメーカーになることを決断。現在は売上の35%を占めるまでに成長した。主にサーボモータに使用され、産業用ロボット、電動いす、医療機器等に利用されている。 売上の60%は精密機器向け部品加工。半導体・液晶製造装置の部品を手掛け、多くの大手企業との取引が結実。また、6,7年前から参入した医療機器分野が急激に伸びている。 多品種少量生産、高品質、短納期を強みとし、「仕上げレス」「検査レス」「管理レス」の生産効率化により高付加価値を実現している。 「いい会社をつくろう」を合言葉に全社員への経営情報オープン化による経営参画意識の浸透と地道な改善活動を積み重ね自立型企業として幅広い分野での設計からのユニットメーカーを目指しており最近の業績も伸長が著しい。27年本社工場を拡張し工場統合による合理化、生産拡大を図っており今後の成長が期待できる。
昭和24年装飾めっきとして創業。61年住宅地から離れ、専用排水設備のある伊那インター工業団地に全面移転し、快適な職場環境作りに取り組み、人材を確保。17年には環境に配慮した最新の排水処理設備にリニューアルした。 20年のリーマンショックでは売上が6割減少する危機的状況に陥るも、現在主柱のゴルフシャフトを始め新規受注を開拓、また徹底的なコスト削減により翌期には過去最高利益を計上した。 当社の主要な表面処理は、無電解ニッケル、電気めっき、化成処理・バリ取りであり、自動車・精密機械・燃料電池などの部品から医療分野・照明分野など幅広く手掛けている。 地場産業色の強いめっき業界にあって当社の顧客は全国に広がっており主要先で350社、トータルで1,000社に及んでいる。 工場内には独立した研究エリアを設け、試作専用めっきラインの新設、高度分析装置導入による表面分析を行い、更に大手取引先の技術開発部門からのニーズ把握など、新技術開発に継続して力を入れている。 SUN Day(ステップの日々)と称する勉強会を月1回土曜日に開催し、ライン別業績を含む月次決算の見える化、外部講師を招くなどモチベーションの高い人材育成等を図っており、今後の成長が期待できる。
昭和24年にミシン等精密部品加工を創業。28年に法人設立。35年頃より自動車部品に参入。50年代後半に現在の主要製品であるAT車用スプールバルブ等製造を開始し事業拡大した。 自動車部品製造の海外シフトが進む中、当社は国内でのモノづくりに特化。平成16年桑名市に多度工場を建設し、海外では製造できない高精度部品製造に邁進した。リーマンショック時には大幅減収を招くも新規顧客の開拓に励み、リストラを行うことなく乗り越えた。22年に難削材精密切削技術を確立し、ATリニアソレノイドを第2の柱へと成長させ、国内はもとより世界の自動車メーカーに製品提供している。 最新鋭切削設備の導入も積極的である一方、中古汎用設備を自社仕様に改良するなどして、熟練者による技能伝承に取り組み、高精度小物切削・研削のプロフェッショナル集団を築き、「良品を生産」することを追求、小さな市場で世界トップシェア製品製造を目指している。 27年に3層化を果たした多度工場見学では生産体制や技術研修も実施し、有料にもかかわらず、ここ数年で世界各国から1万数千名が参加。 若手の工業大学での技術習得・ソフト開発を支援するなど、次世代人材育成にも積極的であり、今後の成長が期待できる。
大正14年に軟膏用、絵具用等の金属チューブ製造として創業した老舗企業。昭和21年、本格的に医療用チューブ生産受注。以降、錫・鉛のチューブ需要増加に伴い拡大。30年以降はエポキシ樹脂による内面塗装技術により化学反応に対する弱点を克服したアルミチューブの生産に転換した。58年スイスのKMK社よりライセンス供与され、硬くて使いにくいアルミチューブの弱点を解消できるラミネートチューブの製造を開始。現在の売上構成はラミネートチューブ5割、アルミチューブ3割、ポリホイルチューブ1割。 国内のラミネートチューブの大半は大量生産する歯磨向けであるが、当社製品は医薬品類、高級歯磨類、化粧品類、接着剤類用と幅広く、多品種少量生産。技術的にはアルミ層を含む閉鎖膜(積層部材)を設けることにより、密閉性・内容物保護性を確保したメンブランチューブを世界で初めて開発するなどの独自性を発揮、国内シェアの10%を担う。またアルミチューブにおいてもユーザーニーズに応え内容物を最後まで絞り出すことのできるエンボスチューブを開発。 ラミネート原反の開発、製品特許の取得、設備・金型、製造プロセスなどの製造技術・ノウハウが他社からの参入障壁となり経営安定。積極的な技術開発・製品開発を行っており、今後の成長が期待できる。
昭和29年創業、地場捺染産業向け捺染用顔料ピグメントレジンカラーを製造。41年にポリエステル染色用分散染料の開発に成功。 以降、国内繊維産業が衰退する中、繊維以外の分野への進出を図り、43年反射シートを開発、染料事業部、フィルム事業部の2事業部制となる。57年繊維製品染色用反応染料、平成11年にはデジタルインクの開発に成功した。 売上構成は染料事業部52%、フィルム事業部48%。染料事業部の染料はユーザー毎の多品種少量生産を強みとしている。デジタルインクはユーザーニーズに対応し、環境汚染を低減しつつ安定性に優れ、Tシャツプリント業者など全国に個別営業を展開、全社売上の11%迄に成長している。フィルム事業部の反射シートは国内外で3M社のシェアが圧倒的である中、ナンバープレート用反射シートを製造、中国、イタリアを始め数十カ国に輸出している。 研究開発を重視し両事業部ともに研究所を設置、技術開発社員が全社員の2割を超えており、特許件数は海外も含め85件取得。 新製品開発に力を入れ他社との差別化を実現することにより事業の拡大を図るとともに、多品種少量生産により大手中心の業界の中で確固たる地位を確立してきており、今後の成長が期待できる。
昭和44年佐渡市で光学機器部品製造を創業。45年に法人設立。50年頃より複写機大手の部品加工開始。58年に本社工場を現在地に全面移転し、以降NC自動旋盤、マシニングセンターなど生産設備自動化を積極的に推進。 平成16年に複写機大手が製造拠点を海外に移転し大きな打撃を受けるも、多品種少量生産へ経営転換し、積極的受注活動を展開する中で、ATM関連部品など分野を広げ、更に現在の柱となる医療関連部品や今後の成長が期待される航空機関連部品への参入を果たした。 医療部品では、ステンレス合金の内視鏡先端部品、チタン製の人体脊椎インプラント部品など難削材を微細・複雑・高精度で加工し、短納期・低コストを実現して顧客の信頼を獲得した。 航空機部品では、21年にJISQ9100認証を取得し、新潟県工業技術総合研究所より難削材高速切削加工技術の指導を受け、以降、小型航空機ジェットエンジン・アクチュエータ部品を製造。26年には新潟市航空機産業クラスターを構成する7社の一員として航空機関連部品共同受注事業に参画した。 佐渡島発で全国約600社への納入実績を持ち、佐渡市での雇用確保、Uターン人材、高齢者雇用にも積極的であり今後の成長が期待できる。
昭和42年に現会長が三和製紙鰍フ子会社として当社設立。ポケットティッシュ製造で事業拡大するも他社との差別化も難しく、輸送コストの課題もあり平成元年に高付加価値化が見込める不織布加工事業へ経営転換しウェットティッシュの製造を開始した。 土佐和紙の伝統技術を継承しつつ、天然繊維を化学繊維で挟んだ3層積層部を高圧水で絡めシート状に製造した不織布は薄く且つ破れない強度を有し工業用テープ製品や化粧品業界に販路を拡大し以降、更なる高付加価値化・最終製品化を志向する中で、化粧品大手からの打診を受けフェイスマスク開発に取組んだ。独自の高度な含浸技術で様々な粘度の化粧液を医薬部外品等にムラなく含浸させ、長時間の保湿性・密着性を保ちつつ多枚数シートの一枚毎使用を簡易にし主力製品として成長を遂げた。この製品は化粧品大手が販売し、シートマスク市場に於いて9年間売上No1製品となっている。 自社ブランド製品では業務用キッチンペーパー、ウェットタオルや介護用使い捨てタオルとして堅実に成長し、また地元産の碁石茶を含浸するスキンケア「りぐる」も販売開始した。 地域活性化、地域雇用促進への積極的取組も高く評価され、今後の成長が期待できる。
平成元年に現社長が前身の鞄本システムスクエアを設立。電子応用機器の設計、パターン認証機器、画像処理システム等の開発に取組み、ノウハウを集積し、異物検査機の分野に経営資源を集中した。 11年に磁界センサーによる金属検査機を完成。金属以外の異物検出にも取組み、16年にX線検査機を開発。食品製造においてトレサビリティ強化、検査履歴保存等が要求される中、検出結果をモニター確認できる各種製品を製造。また、アルミパウチ包装材の普及に伴い、光学画像とX線画像を組合せ、包装体と内容物の位置関係を把握できる画期的製品を開発し「かみこみ検査機」として23年に販売開始した。またデザイン性を重視し5機種でグッドデザイン賞を受賞。これらのオンリーワン製品で業界シェア第3位に発展した。 食の安心安全がますます重要視される中、国内はもとよりアジア諸国への輸出が拡大、顧客ニーズに応え特殊仕様・カスタマイズに対応すると共に多くの特許を取得。今後は食品中心から医薬・工業系異物検査装置の開発に挑戦する。 バランススコアカードの活用で全社的な経営課題を共有し、活気ある職場作りを展開。人材育成に積極的であり今後の成長が期待できる。
昭和22年南雲ファイバー加工所として創業。当初農業機械、暖房器具部品のプレス加工を手掛ける。45年経営の安定化を目指し、成長産業であった電子部品のプレス加工と金型生産に事業を展開した。56年ICチップに使用されるリードフレーム金型の開発に取り組み、高精度金型加工のノウハウを蓄積し、60年にはモールド金型、自動機分野に進出した。 電子部品、半導体の生産拠点の海外移転が続く中、平成14年から、これまでに培った高精度の金型技術を以って自動車業界取引に参入した。 現在の主要製品はエンジンに組み込まれる高性能部品を生産する超精密なプレス金型やトランスミッション部品用樹脂成形金型であり、売上の41%を占めている。 金型設計・製造において論理性、数値性を徹底し、創造性、アイデアを重視してきており、当社の事業拡大の原動力となっている。 現場の工程の見える化、多能工化により、生産キャパシティ・生産効率を向上。さらに年次・月次決算を公開し生産改善に対する社員の意識やモチベーションを高揚し収益率向上を図っている。技能の継承や新たな加工技術の開発を行いつつ、コア技術を生かせる分野の開拓に力を入れており、今後の成長が期待できる。
昭和53年に土木工事業椛コ上組の電算室としてスタートし、57年に分離独立、プログラム開発、パソコン販売事業を開始した。 事業展開の中、青森県下の病院からの看護師用勤務計画表のPCによる作成依頼に基づきソフトを作成。ビジュアル性と操作の容易性が好評を得たことから、平成6年に看護婦勤務計画支援システム「ナース物語」のシリーズの開発に着手した。当時、医師目線のシステムはあったものの、看護師のための勤務に関するシステムがなかったことから、北里大学病院、虎の門病院等の大規模病院から小規模病院まで全国展開で導入が進み、現在約800の病院に納入実績がある。 毎期100百万円強投下し、ソフト開発を継続。現場のニーズに基き、血糖値管理システム、リハビリ実施計画、物流管理システムなどをパッケージソフトとして製品化している。 当社の先進的な取組は高く評価されており、救急外来情報システムの開発や文部科学省COI事業にプロジェクトリーダーとして参画するなど、複数のプロジェクトに参加している。 「青森からの発信」をスローガンに、現在医療系領域の事業化を図るなど実績を生かし新分野に挑戦する経営が展開されており、今後の成長が期待できる。
昭和21年唐津炭田の石炭調査用ボーリングマシン用ツールス修理・製造業として吉田鉄工所創業。30年代後半の相次ぐ炭鉱閉山後、国土開発の時流を捉えボーリングマシンを開発し40年代に西日本・九州を基盤に持つ本格的なボーリング機器メーカーに成長した。 さらに50年代後半から60年代にかけてボーリングマシン・ツールスの技術をコアとして高圧ポンプや地盤改良機、鋼管杭打機を開発。 またAPI(アメリカ石油協会)の認定を受け石油・地熱の掘削ツールも製造。阪神淡路大震災以降、住宅メーカーの地盤改良機のニーズが高まり現在の主力製品の小型・中型地盤改良機は国内トップシェアで、全国に販売網を展開している。 研究開発社員は50名で社員の14%を占め、特許は出願中を含め67件保有。現在、低騒音、小型、軽量、省人化、省力化、スピード化、コンピュータ化、そして安全をコンセプトに継続して新製品の開発を行っている。 炭鉱閉山、バブル崩壊、震災対応等、産業の変遷に適応して、中小企業ならではのニッチな分野に活路を求めて発展。研究開発を社風として、国際的にも高く評価されるコア技術を積極的に新製品開発に生かしてきており、今後の成長が期待できる。